読書記録とか日記とか
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19世紀のフランスにエヴァリスト=ガロアという数学者がいました
ガロアは名門の家に生まれ、名門学校に進学しましたが
1年留年した後、次第に数学のおもしろさにとりつかれ、数学以外の学問にまったく手をつけないようになり
数学特別級に飛び級しましたが、化学と物理の成績はほぼ皆無に等しいものだったそうです
教師陣からは「教師と喧嘩をするために学校へ来ている」と評され、問題児扱いでした
ところで、高校生以上の方ならほとんど知っているでしょうが、二次方程式の解の公式というものがありますね
ax^2+bx+cのとき
x=(-b±√b^2-4ac)/2a
あらわしづらいですがこんな感じです
実は三次、四次方程式にも解の公式が存在するのです
しかし五次方程式以降には存在しない
このことを発見したのが若干17歳のガロアその人でした
ガロアは数学者コーシーにこのことを述べた論文を預け、フランス学士院に提出することを依頼しますが
コーシーは論文を紛失してしまいます
ガロアも怒りと言うより呆れるという感じだったでしょうね
その直後に彼の敬愛していた父親が保守勢力の中傷で心を病み、自殺してしまいます
これは彼の心に深い傷を残し、のちのちの彼の人生に大きくかかわっていきます
その後、望んでいた理工科学校への受験をしましたが、失敗
このとき、愚問ばかりして、ガロアの回答にケチをつけ続けた試験官に黒板消しを投げつけたと言う伝説がのこっています
ちょうどこのころ、フランス学士院にかつてコーシーが紛失した論文を再提出しました
しかし、論文を預かった数学者フーリエが急死し、またしても論文は紛失
結局1831年、3度目でやっと提出できますが子供の書いた論文として当時はほとんど認められなかったそうです この論文の内容が後にガロア理論とよばれます
幾たびもの挫折で、このころからガロアは相当荒んでいったといわれています
共和主義へ傾倒し、危険発言をしたとして1831年に逮捕されます
行われた裁判では自分に不利になる供述も平気でしました
このときはなんとか無罪となりますが、その後のデモでまた逮捕され有罪判決を受けました
5ヶ月で出所したあと、失恋を経験し、そのことで相手はわかっていませんが決闘を行ったそうです
決闘前に盟友の共産主義者シュヴァリエに送った手紙にはさまざまな数学的発想を断片的が記され
「僕にはもう時間が無い」と書き添えられていました
最初から死ぬつもりだったのでしょう
そして決闘は行われ
1832年5月31日 ガロアは決闘での負傷が原因で命を落とします 若干20歳でした
ガロアは最後に涙を流す弟にこう言ったそうです
自分のやりたい事をやり通すという精神を徹頭徹尾貫いた素敵な人だと思います
ガロアは名門の家に生まれ、名門学校に進学しましたが
1年留年した後、次第に数学のおもしろさにとりつかれ、数学以外の学問にまったく手をつけないようになり
数学特別級に飛び級しましたが、化学と物理の成績はほぼ皆無に等しいものだったそうです
教師陣からは「教師と喧嘩をするために学校へ来ている」と評され、問題児扱いでした
ところで、高校生以上の方ならほとんど知っているでしょうが、二次方程式の解の公式というものがありますね
ax^2+bx+cのとき
x=(-b±√b^2-4ac)/2a
あらわしづらいですがこんな感じです
実は三次、四次方程式にも解の公式が存在するのです
しかし五次方程式以降には存在しない
このことを発見したのが若干17歳のガロアその人でした
ガロアは数学者コーシーにこのことを述べた論文を預け、フランス学士院に提出することを依頼しますが
コーシーは論文を紛失してしまいます
ガロアも怒りと言うより呆れるという感じだったでしょうね
その直後に彼の敬愛していた父親が保守勢力の中傷で心を病み、自殺してしまいます
これは彼の心に深い傷を残し、のちのちの彼の人生に大きくかかわっていきます
その後、望んでいた理工科学校への受験をしましたが、失敗
このとき、愚問ばかりして、ガロアの回答にケチをつけ続けた試験官に黒板消しを投げつけたと言う伝説がのこっています
ちょうどこのころ、フランス学士院にかつてコーシーが紛失した論文を再提出しました
しかし、論文を預かった数学者フーリエが急死し、またしても論文は紛失
結局1831年、3度目でやっと提出できますが子供の書いた論文として当時はほとんど認められなかったそうです この論文の内容が後にガロア理論とよばれます
幾たびもの挫折で、このころからガロアは相当荒んでいったといわれています
共和主義へ傾倒し、危険発言をしたとして1831年に逮捕されます
行われた裁判では自分に不利になる供述も平気でしました
このときはなんとか無罪となりますが、その後のデモでまた逮捕され有罪判決を受けました
5ヶ月で出所したあと、失恋を経験し、そのことで相手はわかっていませんが決闘を行ったそうです
決闘前に盟友の共産主義者シュヴァリエに送った手紙にはさまざまな数学的発想を断片的が記され
「僕にはもう時間が無い」と書き添えられていました
最初から死ぬつもりだったのでしょう
そして決闘は行われ
1832年5月31日 ガロアは決闘での負傷が原因で命を落とします 若干20歳でした
ガロアは最後に涙を流す弟にこう言ったそうです
- Ne pleure pas, j'ai besoin de tout mon courage pour mourir à vingt ans!
- 泣かないでくれ。僕にはたくさんの勇気が必要なんだ、二十歳で死ぬのだから。
ガロア理論が認められたのは、彼の死後14年がたってからのことでした
自分のやりたい事をやり通すという精神を徹頭徹尾貫いた素敵な人だと思います
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